NEW ANARCHISM INTEREST GROUP

◆ 機関紙「黒旗」

NAIG機関紙「黒旗」のページです。

アナキズム、社会、政治、思想、文化などについて、 NAIGのメンバーが考えたことを書いています。

◆ 創刊号

『黒旗』創刊号
『黒旗』創刊号
2026年9月10日発行
[ デジタル版を読む ]
しんぶん黒旗 第1号
しんぶん黒旗 第1号

◆ 目次

01 合法と違法、暴力と非暴カーー境界線は誰が引くのか 

02  学園祭は何のためのものなのか-大資本の広告スペクタクルと化してしまっているのではないか?

03 ペンキと爆弾--暴力とは誰が決めるのかーーパレスチナ・アクションをめぐって-市民が抗議でペンキをかけるのは暴力で国家が爆弾を落とすのは暴力じゃないの?

◆ 本文テキスト ※画像版を推奨

与えられた秩序を疑え、権威を解体せよ 自由な者たちよ 服従を拒み、連帯を選ぼう 2026年9月10日発行 しんぶん黒旗 第1号 https://anarchism.jp 発行: New Anarchism Interest Group (NAIG) 文:しゃろねあ Slack #アナーキズム同好会から参加しよう しんぶん黒旗では、アナキズムなどの思想や、社会問題、日常に潜む問題について考え、国家や資本から、学校、家庭、社会規範に至るまで、「当たり前」とされがちな、権威による支配を今一度問い直します。 今号では、しんぶん黒旗刊行にあたって、私たちが目指す自由と連帯について特集します。 合法と違法、暴力と非暴カーー境界線は誰が引くのか 「それはルール違反だから、やってはいけない。」私たちは、日常のなかで何度もこう言われる。ルールに違反すれば処分される。一見すると、あまりにも当然のことのように思える。では、少しだけ立ち止まって考えてみたい。そもそもそのルールの内容誰が決めているのだろうか?そもそも合法/違法と善/悪は、本当に同じなのだろうか。合法/違法、その境界線は誰が決め、どこにあるのだろうか。当たり前のことではあるが、ルールは最初から宇宙に客観的に存在していたわけではない。授業中に勝手に席を立ったからと言って、地球の重力に怒られて、机に戻されたりはしない。ではなぜ、今ルールがあるのか、そう、一部の人間によって主観的に作り出されたからだ。たとえば、Slack利用ポリシーの文言に何を含めるかは学園の生徒指導部などで規定されていると推定される。ポリシーにどんな文字列が書かれているか、これは日本語が読める人ならば誰でも確認できる「あ」と言う文字が書かれていると言う事実は日本語話者なら誰が見ても変わらない。では、「公序良俗に反する投稿」とはなんだろうか、「公序良俗に反する投稿」と言う文字が書かれていると言うことは、日本語話者の誰が見ても変わらないが、何が「公序良俗に反する投稿」なのかは人によって変わる主観的なものだ。そこに宇宙に刻まれた客観的な正しい解釈は存在しない。偉い人が基準を提示しても、圧倒的大多数が同じ基準を提示したとしても、それはその人から見た主観的な解釈でしかない。だが、実際にSlack利用ポリシーを執行する力を持っているのは学校当局である。たとえ生徒の99%が反対しようとも、Slackの管理者画面からBANボタンを押してしまえばその解釈が現実となってしまうのだ。私は、学園祭が大資本の利益のための広告装置として使われてしまっている現状を危惧し、NAIGの同志が作成した学園祭のあり方を問う文章が書かれたビラを学園Slack上の自分のtimesに投稿したことがある。学園祭での出来事については次の章で詳しく語っているのでそちらもご覧いただきたい。学校当局の生徒指導部はその中で使われていた「粉砕」と言う言葉が暴力的だなどと文脈を無視して言葉狩りをし、私をルールからの「逸脱者」に仕立て上げた。学生運動や政治活動の場で古くから使われてきたはずのこの表現を曲解し、都合の悪い生徒を言論空間から追放しようとする試みである。実際、私は1ヶ月間、Slackを追放され、他の生徒と話すと言う学校の一員として当たり前だと思っていたのはずの日常を奪われてしまった。では、G7サミットや広島平和記念式典などでこれは真の平和のための式典ではない、実態は戦争式典じゃないかと考え、「サミット粉砕」や「式典粉砕」を唱えて戦争に反対した人々は、物理的にサミットや式典を爆破して粉々にしようと主張していたのか?デモでよく使われている「高市倒せ」は高市氏を物理的に暗殺することを意味するのか?学校当局の解釈は、私にはとても恣意的な解釈だとしか思えなかった。 「公序良俗に反する投稿」という文字列が存在することと、その文字列を具体的な行為にどう適用するかは別問題であって、そこには解釈と権力が介在するのだ 学園祭は何のためのものなのか 本来、学園祭は、作り、楽しむ学生の、生きた日常の一部であるはずだ。学生は、日常の中で、学園に批判的なことを言う時だってあるし、世間が求める学生像とは違う独創的なことをする時もある。そのようなものも含めて生きた日常であるはずだ。学園祭はその一部であるはずではないだろうか。それなのに、入学者を増やすため、協賛金を増やすために、外部に印象の良い学生のみを登場させ、さらには、都合の良い学生ですら、生きた経験を広告のための道具として別の価値に変換させてしまっている。留学、起業、投資、研究と言う一人の人間の生きた経験を、績」として並べられた瞬間、経験そのものが別の価値へと変換される。自分にとってどんな意味があったのかではなく、広告としてどうかという尺度に変えられてしまっている。自分自身の活動が、自分自身から切り離され、自分のものではないもののようになってしまうこと、まさにここで疎外が起きてしまっている。 学園の印象を良くする広告装置、より強い言葉で言うならプロパガンダと化してしまっている。学生が角川という大資本の利益のための広告ツールとして使われてしまっているのだ。これでは、度合いは違えど、北朝鮮の国営放送で出てきた、金正日の訃報で大泣きする演技をしていた北朝鮮の人民と何が違うのだろうか?もちろん、両者を完全に同一視するつもりはない。しかし、そこには一つの共通する構造がある。人間の生きた経験や感情が、本人自身のものではなく、権力や組織が望むイメージを作るための素材として利用されるという構造である。このように、今や教育事業が営業利益の35%を占める角川という大資本の利益のための広告として使われてしまっている現状を危惧し、広告スペクタクル(見せ物)と化してしまった疎外された磁石祭を粉砕し、生きた経験としての、日常の一部としての磁石祭を取り戻すべく、「磁石祭粉砕闘争」と題して演説やビラ配りを行った。学生が意見を伝えることができる数少ない場で、ビラ配りという言論で自分たちの意見を伝えていただけの我々を、通行人は、理不尽にも暴力で弾圧してきた。突然こちらの倍以上の大人数で押さえつけ、自由な言論を暴力によって弾圧してきたのだ。学園当局は、通行人の暴力には「暴力」と言う語を適用せず、我々のビラの「粉砕」の意味を曲解し、「暴力的」だと主張し、理不尽極まりない処罰を下してきた。歴史的にも広く使われてきた意味で書いた「粉砕」と言う言葉を、文脈を無視し、「暴力的」とし、実際に力で実力行使までしてきた通行人の暴力には「暴力的」とは言わなかった。このように、暴力と非暴力の境界は権力によって作られるものなのだ。学校という小さな空間で起きたこの出来事は、決して学校だけの特殊な問題なのだろうか。誰かの行為を「暴力」と呼び、別の行為を「正当な執行」と呼ぶ。 その境界線は、いったい誰によって引かれているのだろうか。この問題を、より大きな社会の事例から考えてみたい。次章では、イギリスのパレスチナ・アクションを取り上げる。 ペンキと爆弾--暴力とは誰が決めるのかーーパレスチナ・アクションをめぐって 2025年、イギリスのパレスチナ・アクションと言う団体を巡って大きな議論が発生した。 この団体は、イスラエル政府に武器を供給する兵器メーカーを止めるため、直接行動で抗議するなどの活動を行ってきた団体だ。イギリス空軍の軍用機にペンキをかけるなどの直接行動を行った結果、パレスチナ・アクションは、2025年に、イギリス政府にテロ組織と指定された。イギリスの法律では、活動が全面禁止にされるのみならず、支持を表明するだけで普察に逮捕されるというほど厳しい法律だ。実際、著名な環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏は「私はパレスチナ・アクションの因人たちを支持し、ジェノサイド(集団殺害)に反対する」と言うプラカードを持っていただけでイギリス響察に身柄を拘束された。グレタ氏だけではない、この団体への支持を表明したことで2819人が逮捕されている。支持を表明するだけでだ、自分の政治的立場を表明するだけで拘束されると言うなんと理不尽極まりない法律なんだろうか。テロ組織なんだから支持を表明したら捕まるのはしょうがないと思う人も居るかもしれない。しかし、もう一度よく考えてみてほしい。おかしくないだろうか?ペンキをかけた組繊はテロ組織とされ、彼らが止めようとしたイスラエルによる攻では、国人道問題調整事務所(OCHA)に掲載されたがザ保健省による調査では、2026年1月の時点で、71667人の死者と171343人の負傷者が出たとされている。さらに、国連の独立調査委員会によれば、2025年2月25日までにガザの564校中403校が直接攻を受けて損傷したとされている。ガザも街では、爆弾が落ち、誰かが下数きになり、食料、水、電気などのインフラが止まり、誰かが飢に苦しんでいる。人を殺傷する兵器を製造・供給する産業に対してペンキをかけるという直接行動を取ることと、その兵器が実際に使用され、人間が殺傷されること。どちらがより「暴力的」なんだろうか。これは直感的にも、後者であると思う人が多いのではないだろうか。だが、現実には、国家による圧倒的な暴力は「軍事作戦」 「自衛」「安全保障」「対テロ作戦」と呼ばれ、暴力やテロという言葉は使われず、正当化されてしまっている。このように、暴力/非暴力テロ/抵抗の境界は権力によって決められてしまっているのだ。合法/違法=善/悪なら国家による暴力はいくらでも正当化できてしまう。合法だから善なのではない。違法だから悪なのでもない。「暴力」と呼ばれるから暴力なのではない。 「テロ」と呼ばれるからテロなのでもない。私たちは、誰がその名前を与え、その名前によって誰が罰せられ、誰の行為が正当化されるのかを 問わなければならない。合法/違法、善/悪、暴力/非暴力、テロ/抵抗。その境界線は、本当に私たちが思っているほど自然なものなのだろうか。イスラエル批判になってしまったが、イスラエルを批判しているからといって、ハマスを支持しているわけでは決してないハマスが行った、非戦闘員を拉致によって人質にとるなどの行動は決して正当化されるものではない。片方の陣営を批判するからと言って、無条件でもう片方を支持するようなキャンピズムは避けるべきであり、現代の左派の運動における課題の一つだと考えている。このように、「規範」もまた、歴史的・社会的に形成されたものである。何が正常で、何が異常なのか。何が正しく、何が間違っているのか。何を一つのものとして分類し、何を別のものとして区別するのか。そうした基準もまた、自然そのものから直接与えられているわけではない。つまり、制度だけでなく、私たちが世界を理解するために用いている規範や分類そのものもまた、歴史のなかで形成されたものである。だからこそ、私たちは「これは昔からそうだった」「これは普通だから」 「これは自然な分類だから」という理由だけで、現在の秩序を受け入れる必要はない。国家も、資本主義も、学校制度も、家族制度も、規範も、分類も、歴史の外側に 存在するものではない。ならば、それらは歴史のなかで問い直し、変えていくことができるはずではないか。当たり前だからで終わらせず、どんな権威も一度は疑ってかかる姿勢こそが大切なのだと思う。 最後まで読んでいただきありがとうございました。感想、フィードバックなどがあればぜひご気軽に、右にあります連絡先にご連絡くださいまた、次号からは機関紙に掲載する文章の寄稿を募集しておりますので、寄稿をご希望の方もぜひご気軽にご連絡ください お問い合わせはSlack、Discord、X等のしゃろねあのDMまで またはメールアドレスanarchism.jp@proton.me NAIG

『黒旗』創刊 <

◆ 更新情報

2026/09/10  創刊号を公開しました。

```