NEW ANARCHISM INTEREST GROUP

◆ 機関紙「黒旗」

NAIG機関紙「黒旗」のページです。

アナキズム、社会、政治、思想、文化などについて、 NAIGのメンバーが考えたことを書いています。

◆第2号

『黒旗』第2号
『黒旗』第2号
2026年9月11日発行
[ デジタル版を読む ]
しんぶん黒旗 第2号
しんぶん黒旗 第2号

◆ 目次

01 アナキズムとは何か 

02 マルクスとハイデガー 

◆ 本文テキスト ※画像版を推奨

この二人の思想的巨頭の交わりは、ハイデガーが書簡『ヒューマニズムにつ いて』の文中でマルクスの疎外論を高く評価したことに見出されるが、また 彼はマルクスの人間観には本質主義的で主客二元論を自明視している形而上 学があると批判していた。一般的にマルクス主義は下部構造を主眼とする唯 物論的な思想と捉えられがちな傾向にあるが、初期マルクスは『フォイエル バッハ・テーゼ』で直観的唯物論の機械仕掛けと観念論的なヘーゲル弁証法 の思弁性を双方とも乗り越える「感性的対象的活動」という存在論的な見地 を提起していた。その思想的余白にハイデガーを要請する統合的な思想こそ が初期マルクーゼが探究した現象学的マルクス主義にほかならない。彼が意 図したことは、従来の硬直した「科学」としてのソ連型マルクス主義の教条 に代わる、ハイデガーの存在論を経由した「哲学」の立場からの内在的超克 を試みた全く新しいマルクス主義の思想であったと言えよう。 マルクーゼは、当時フライブルク大学で師事していたハイデガーの主著『存 在と時間』の徹底された存在論に感銘を受け、彼が一九二八年に執筆した初 期論文『史的唯物論の現象学的基礎付け』において現存在の歴史性という概 念を手掛かりに(ハイデガー的)現象学的マルクス主義を展開した。この試 みは、一九三二年に公刊された『経済学哲学草稿』で人間的で根源的な初期 マルクスが発見されたことによりマルクス原典の側からの答え合わせが為さ れる形で圧倒的な根拠を得たのだ。しかし、マルクーゼが求めていた解放的 な思想が既に経哲草稿に先取りされていたから存在論を経由する必然性がな くなり、その翌年にナチスに協力したハイデガーとの決別に繋がったと捉え る定説はあくまで史実の説明としては正しいが、まだ未完の現象学的マルク ス主義の可能性をもっと掘り下げるべきではないか。マルクーゼの初期思想 の未完を受け継ぎ深化させることを私の仕事としたい。 廣松渉の物象化論やアルチュセールの構造主義的マルクス主義が批判されて いるのは、その事的世界観や重層的決定とかいう〈構造〉が一体どこを根拠 に存在すると言えるのか?という基礎付けの問いに答えを提出してないから である。彼らの論理は宙に浮いた眼前的な記述に留まっており、現存在を関 係の網み目の中に埋没させ静観に徹する罠に陥っている。その一方で、黒田 寛一的な疎外論はそれ以前的な現存在する人間の「感性的対象的活動」と物 質代謝の再生産に視座を置き、この疎外された現実を止揚する実践=共産主 義の目的意識性を内包している。初期マルクスの読解において『経済学哲学 草稿』と次いで翌年の『フォイエルバッハ・テーゼ』に内在する矛盾をどう 捉えるか?という論争は有名だが、私は連続説を採用してアルチュセールの 言う「認識論的断絶」の見解を退け、後期に『資本論』で展開される物神崇 拝の分析や物象化論もあくまで疎外論の深化した思想だと理解している。廣 松渉の『疎外革命論批判序説』において疎外論は類的存在という抽象的な本 質を措定する故郷喪失的な思想だと批判されるが、むしろ我々が「〜から疎 外される」と言う時、その失われた本質は、そのように認識される時点でさ え既に現実の中に内在し、転回する否定性の弁証法的な契機なのだ。斎藤幸 平の脱成長コミュニズムは物象化論崩れの環境フェティシズムに過ぎず、廣 松渉が四肢構造論において意味と所与をわざわざ切り離して考えるのは主客 二元論に後退した新カント派な認識論に偏っている。だからこそ存在の意味 を総体的に把握するために現象学的マルクス主義は要請されるのだ。 現象学的マルクス主義の視座から概念を再定義すると、気遣いを投企した行 為が自らの存在可能性に還内せず、疎遠な対立物として支配的に立ち現れる 現象が「疎外」であり、存在者の共同主観性(それが社会関係の文脈におい て初めて意味付けられること)が忘却され、あたかも実体的な物質それ自体 として独立した価値を持つように見える現象が「物象化」である。賃金労働 の疎外とは、ただ労働者が余剰価値を搾取されるという経済学的な次元の問 題のみならず、作業が規律化され作り手を離れて疎外物に転化するという存 在忘却の事態にほかならない。この疎外された現実に我々は物心付いた時か ら既に被投的に内存在しており、敢えて存在論の言語で分析する以前から日 常的に気分を感じ世界と深く関わり合って生きている。例えば、鉛筆が文字 を書くために在り、椅子が座るために在るように、汎ゆる人間の営みは社会 的に了解された〈意味〉において指示連関(道具の「〜するために」という 用途の繋がり)を形作り成立している。西田幾多郎の述べるように、我々に とって社会とは「造格的な」場所であり、それは共同主観的な了解に規定さ れた現存在の頽落的な行為の繰り返しで維持再生産されている。ならば目的 意識的な実践によって疎外を克服することも義務的に可能であり、近代のブ ルジョワ国家が特殊な生産関係の歪みの条件下に規定された歴史的存在であ る以上それは、対自的なプロレタリアートの革命的投企に廃棄されて然るべ き運命にあるのだ。なお人間の本質は社会的諸関係の総体であるため、国家 廃棄を物質化する歴史的実践も、また一つの共同性としてアソシエーション が構想される。それは実際的な「近代の超克」を意味するだろう。 階級闘争はあたかも人間がカテゴリ的に資本家かまたは労働者かに分類され て各々戦っている訳ではない。一般的な(ブルジョワ的な)視点から見れば 近代社会は自由な個人が社会契約によって結ばれる市民社会であり階級はそ もそも存在しない設定になっているが、マルクス主義の立場から見ればそれ はブルジョワ社会に「包摂」された状態であり、それらの正義論的なリベラ ル政治哲学が許される余地をまず除外した上で、生産過程の疎外という現実 について経済学批判と哲学的な見地から階級を認識し、国家と資本に対決す る革命主体としてプロレタリア階級を形成するのだ。階級意識を持つことは 現存在が世界の疎外された現実に対決し変革するというマルクス主義の世界 観を自らが獲得し規範を書き換える「世界観闘争」なのだ。現実に即して言 うと労働者の本質をそもそも革命的(もしくは保守的)だと措定する態度で は理想論に過ぎない。体制に包摂された労働者は安定志向だが、二月革命の ように自ずから評議会に立ち上がった歴史もある。その労働者の「実存は本 質に先立つ」本質の無さこそがプロレタリアートとして自己組織化しうる可 能性を残しているのだ。現代の新左翼の問題は階級的主体性を見失う政治主 義(上部構造の政策的な争点ばかり取り組むこと)の転倒にあり、かつて六 八年の全共闘のように党派の垣根を超えて〈階級として〉我々が団結する戦 線にこそマルクス主義の革命運動を再建する道筋が見えて来る。揺れ動く党 派のイデオロギーとは異なり「国家と資本を乗り越えること」こそが階級闘 争の普遍的な目標であり革命的左翼の至上命題である。

◆ 創刊号

『黒旗』創刊号
『黒旗』創刊号
2026年9月10日発行
[ デジタル版を読む ]
しんぶん黒旗 第1号
しんぶん黒旗 第1号

◆ 目次

01 合法と違法、暴力と非暴カーー境界線は誰が引くのか 

02  学園祭は何のためのものなのか-大資本の広告スペクタクルと化してしまっているのではないか?

03 ペンキと爆弾--暴力とは誰が決めるのかーーパレスチナ・アクションをめぐって-市民が抗議でペンキをかけるのは暴力で国家が爆弾を落とすのは暴力じゃないの?

◆ 本文テキスト ※画像版を推奨

与えられた秩序を疑え、権威を解体せよ 自由な者たちよ 服従を拒み、連帯を選ぼう 2026年9月10日発行 しんぶん黒旗 第1号 https://anarchism.jp 発行: New Anarchism Interest Group (NAIG) 文:しゃろねあ Slack #アナーキズム同好会から参加しよう しんぶん黒旗では、アナキズムなどの思想や、社会問題、日常に潜む問題について考え、国家や資本から、学校、家庭、社会規範に至るまで、「当たり前」とされがちな、権威による支配を今一度問い直します。 今号では、しんぶん黒旗刊行にあたって、私たちが目指す自由と連帯について特集します。 合法と違法、暴力と非暴カーー境界線は誰が引くのか 「それはルール違反だから、やってはいけない。」私たちは、日常のなかで何度もこう言われる。ルールに違反すれば処分される。一見すると、あまりにも当然のことのように思える。では、少しだけ立ち止まって考えてみたい。そもそもそのルールの内容誰が決めているのだろうか?そもそも合法/違法と善/悪は、本当に同じなのだろうか。合法/違法、その境界線は誰が決め、どこにあるのだろうか。当たり前のことではあるが、ルールは最初から宇宙に客観的に存在していたわけではない。授業中に勝手に席を立ったからと言って、地球の重力に怒られて、机に戻されたりはしない。ではなぜ、今ルールがあるのか、そう、一部の人間によって主観的に作り出されたからだ。たとえば、Slack利用ポリシーの文言に何を含めるかは学園の生徒指導部などで規定されていると推定される。ポリシーにどんな文字列が書かれているか、これは日本語が読める人ならば誰でも確認できる「あ」と言う文字が書かれていると言う事実は日本語話者なら誰が見ても変わらない。では、「公序良俗に反する投稿」とはなんだろうか、「公序良俗に反する投稿」と言う文字が書かれていると言うことは、日本語話者の誰が見ても変わらないが、何が「公序良俗に反する投稿」なのかは人によって変わる主観的なものだ。そこに宇宙に刻まれた客観的な正しい解釈は存在しない。偉い人が基準を提示しても、圧倒的大多数が同じ基準を提示したとしても、それはその人から見た主観的な解釈でしかない。だが、実際にSlack利用ポリシーを執行する力を持っているのは学校当局である。たとえ生徒の99%が反対しようとも、Slackの管理者画面からBANボタンを押してしまえばその解釈が現実となってしまうのだ。私は、学園祭が大資本の利益のための広告装置として使われてしまっている現状を危惧し、NAIGの同志が作成した学園祭のあり方を問う文章が書かれたビラを学園Slack上の自分のtimesに投稿したことがある。学園祭での出来事については次の章で詳しく語っているのでそちらもご覧いただきたい。学校当局の生徒指導部はその中で使われていた「粉砕」と言う言葉が暴力的だなどと文脈を無視して言葉狩りをし、私をルールからの「逸脱者」に仕立て上げた。学生運動や政治活動の場で古くから使われてきたはずのこの表現を曲解し、都合の悪い生徒を言論空間から追放しようとする試みである。実際、私は1ヶ月間、Slackを追放され、他の生徒と話すと言う学校の一員として当たり前だと思っていたのはずの日常を奪われてしまった。では、G7サミットや広島平和記念式典などでこれは真の平和のための式典ではない、実態は戦争式典じゃないかと考え、「サミット粉砕」や「式典粉砕」を唱えて戦争に反対した人々は、物理的にサミットや式典を爆破して粉々にしようと主張していたのか?デモでよく使われている「高市倒せ」は高市氏を物理的に暗殺することを意味するのか?学校当局の解釈は、私にはとても恣意的な解釈だとしか思えなかった。 「公序良俗に反する投稿」という文字列が存在することと、その文字列を具体的な行為にどう適用するかは別問題であって、そこには解釈と権力が介在するのだ 学園祭は何のためのものなのか 本来、学園祭は、作り、楽しむ学生の、生きた日常の一部であるはずだ。学生は、日常の中で、学園に批判的なことを言う時だってあるし、世間が求める学生像とは違う独創的なことをする時もある。そのようなものも含めて生きた日常であるはずだ。学園祭はその一部であるはずではないだろうか。それなのに、入学者を増やすため、協賛金を増やすために、外部に印象の良い学生のみを登場させ、さらには、都合の良い学生ですら、生きた経験を広告のための道具として別の価値に変換させてしまっている。留学、起業、投資、研究と言う一人の人間の生きた経験を、績」として並べられた瞬間、経験そのものが別の価値へと変換される。自分にとってどんな意味があったのかではなく、広告としてどうかという尺度に変えられてしまっている。自分自身の活動が、自分自身から切り離され、自分のものではないもののようになってしまうこと、まさにここで疎外が起きてしまっている。 学園の印象を良くする広告装置、より強い言葉で言うならプロパガンダと化してしまっている。学生が角川という大資本の利益のための広告ツールとして使われてしまっているのだ。これでは、度合いは違えど、北朝鮮の国営放送で出てきた、金正日の訃報で大泣きする演技をしていた北朝鮮の人民と何が違うのだろうか?もちろん、両者を完全に同一視するつもりはない。しかし、そこには一つの共通する構造がある。人間の生きた経験や感情が、本人自身のものではなく、権力や組織が望むイメージを作るための素材として利用されるという構造である。このように、今や教育事業が営業利益の35%を占める角川という大資本の利益のための広告として使われてしまっている現状を危惧し、広告スペクタクル(見せ物)と化してしまった疎外された磁石祭を粉砕し、生きた経験としての、日常の一部としての磁石祭を取り戻すべく、「磁石祭粉砕闘争」と題して演説やビラ配りを行った。学生が意見を伝えることができる数少ない場で、ビラ配りという言論で自分たちの意見を伝えていただけの我々を、通行人は、理不尽にも暴力で弾圧してきた。突然こちらの倍以上の大人数で押さえつけ、自由な言論を暴力によって弾圧してきたのだ。学園当局は、通行人の暴力には「暴力」と言う語を適用せず、我々のビラの「粉砕」の意味を曲解し、「暴力的」だと主張し、理不尽極まりない処罰を下してきた。歴史的にも広く使われてきた意味で書いた「粉砕」と言う言葉を、文脈を無視し、「暴力的」とし、実際に力で実力行使までしてきた通行人の暴力には「暴力的」とは言わなかった。このように、暴力と非暴力の境界は権力によって作られるものなのだ。学校という小さな空間で起きたこの出来事は、決して学校だけの特殊な問題なのだろうか。誰かの行為を「暴力」と呼び、別の行為を「正当な執行」と呼ぶ。 その境界線は、いったい誰によって引かれているのだろうか。この問題を、より大きな社会の事例から考えてみたい。次章では、イギリスのパレスチナ・アクションを取り上げる。 ペンキと爆弾--暴力とは誰が決めるのかーーパレスチナ・アクションをめぐって 2025年、イギリスのパレスチナ・アクションと言う団体を巡って大きな議論が発生した。 この団体は、イスラエル政府に武器を供給する兵器メーカーを止めるため、直接行動で抗議するなどの活動を行ってきた団体だ。イギリス空軍の軍用機にペンキをかけるなどの直接行動を行った結果、パレスチナ・アクションは、2025年に、イギリス政府にテロ組織と指定された。イギリスの法律では、活動が全面禁止にされるのみならず、支持を表明するだけで普察に逮捕されるというほど厳しい法律だ。実際、著名な環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏は「私はパレスチナ・アクションの因人たちを支持し、ジェノサイド(集団殺害)に反対する」と言うプラカードを持っていただけでイギリス響察に身柄を拘束された。グレタ氏だけではない、この団体への支持を表明したことで2819人が逮捕されている。支持を表明するだけでだ、自分の政治的立場を表明するだけで拘束されると言うなんと理不尽極まりない法律なんだろうか。テロ組織なんだから支持を表明したら捕まるのはしょうがないと思う人も居るかもしれない。しかし、もう一度よく考えてみてほしい。おかしくないだろうか?ペンキをかけた組繊はテロ組織とされ、彼らが止めようとしたイスラエルによる攻では、国人道問題調整事務所(OCHA)に掲載されたがザ保健省による調査では、2026年1月の時点で、71667人の死者と171343人の負傷者が出たとされている。さらに、国連の独立調査委員会によれば、2025年2月25日までにガザの564校中403校が直接攻を受けて損傷したとされている。ガザも街では、爆弾が落ち、誰かが下数きになり、食料、水、電気などのインフラが止まり、誰かが飢に苦しんでいる。人を殺傷する兵器を製造・供給する産業に対してペンキをかけるという直接行動を取ることと、その兵器が実際に使用され、人間が殺傷されること。どちらがより「暴力的」なんだろうか。これは直感的にも、後者であると思う人が多いのではないだろうか。だが、現実には、国家による圧倒的な暴力は「軍事作戦」 「自衛」「安全保障」「対テロ作戦」と呼ばれ、暴力やテロという言葉は使われず、正当化されてしまっている。このように、暴力/非暴力テロ/抵抗の境界は権力によって決められてしまっているのだ。合法/違法=善/悪なら国家による暴力はいくらでも正当化できてしまう。合法だから善なのではない。違法だから悪なのでもない。「暴力」と呼ばれるから暴力なのではない。 「テロ」と呼ばれるからテロなのでもない。私たちは、誰がその名前を与え、その名前によって誰が罰せられ、誰の行為が正当化されるのかを 問わなければならない。合法/違法、善/悪、暴力/非暴力、テロ/抵抗。その境界線は、本当に私たちが思っているほど自然なものなのだろうか。イスラエル批判になってしまったが、イスラエルを批判しているからといって、ハマスを支持しているわけでは決してないハマスが行った、非戦闘員を拉致によって人質にとるなどの行動は決して正当化されるものではない。片方の陣営を批判するからと言って、無条件でもう片方を支持するようなキャンピズムは避けるべきであり、現代の左派の運動における課題の一つだと考えている。このように、「規範」もまた、歴史的・社会的に形成されたものである。何が正常で、何が異常なのか。何が正しく、何が間違っているのか。何を一つのものとして分類し、何を別のものとして区別するのか。そうした基準もまた、自然そのものから直接与えられているわけではない。つまり、制度だけでなく、私たちが世界を理解するために用いている規範や分類そのものもまた、歴史のなかで形成されたものである。だからこそ、私たちは「これは昔からそうだった」「これは普通だから」 「これは自然な分類だから」という理由だけで、現在の秩序を受け入れる必要はない。国家も、資本主義も、学校制度も、家族制度も、規範も、分類も、歴史の外側に 存在するものではない。ならば、それらは歴史のなかで問い直し、変えていくことができるはずではないか。当たり前だからで終わらせず、どんな権威も一度は疑ってかかる姿勢こそが大切なのだと思う。 最後まで読んでいただきありがとうございました。感想、フィードバックなどがあればぜひご気軽に、右にあります連絡先にご連絡くださいまた、次号からは機関紙に掲載する文章の寄稿を募集しておりますので、寄稿をご希望の方もぜひご気軽にご連絡ください お問い合わせはSlack、Discord、X等のしゃろねあのDMまで またはメールアドレスanarchism.jp@proton.me NAIG

『黒旗』創刊 <

◆ 更新情報

2026/09/11 第2号を公開しました。

2026/09/10  創刊号を公開しました。

```